« 井上道義-新日本フィル:ショスタコーヴィチ交響曲第5番 | トップページ | サラとミーナ217: サラの表と裏 »

2019年6月30日 (日)

やぶにらみ生物論129: 神経伝達物質としてのグリシン

グリシンは図1に示すように、生体内のアミノ酸の中では、光学異性体も存在しないという最もシンプルな構造の化合物です。このような何の変哲もないありふれた物質が、神経伝達物質として機能するということは信じ難いことですが、このことはきちんと証明されています。

A_20190630120901

グリシンがGABAと同じく、抑制性の神経伝達物質であることはウィアマンとアプリソン(図2)が中心となった研究グループによって、1967年に報告されました(1-3)。ウィアマンの肖像写真は残念ながらみつかりませんでした。彼はこの研究を行った後、イスラエルのヘブライ大学などで研究を続けましたが、政治にも関心があり、図2のように湾岸戦争についての考察を本にして出版しています。また退職後は現代版養生訓のような "Living with an Aging Brain: A self-help guide for your senior years" という本も出版しています(4、5)。

アプリソンもユダヤ系ですが、彼は米国の研究者です。自伝を出版しているので(6)、それをたどると彼の父親はオーストリア系の移民で故国では優秀な大工だったのですが、欧州での反ユダヤを嫌って米国に移住したら、そこでも1920年代の反ユダヤ主義によって仕事を失い、雑貨屋で生計を立てて子供を育てたそうです。米国の反ユダヤ主義とは何だろうと思って少し調べてみると、ひとつはロシア革命がトロツキーらのユダヤ人による陰謀であるとの流言や、米国内での労働争議が主にユダヤ人によって主導されていたことに対する反発などがあったようです。

A_20190630121001

アプリソンはウィスコンシン大学で修士号を取得しましたが、彼が興味を持った生物物理学のドクターコースはなかったので、仕方なく印刷物関連の研究所で新聞のカラー化などについての研究を行っていました。しかしウィスコンシン大学からヒストラジオグラフィー(生体組織を感光剤に埋めて、外部からX線を照射することによって組織の成分を分析する)の装置を作る手伝いをしてくれと要請されて転職し、彼の生化学者としてのキャリアがはじまりました。結局彼はなぜか植物の窒素固定の研究を行なうことになり、ウィスコンシン大学ではじめての生化学分野での博士号を1952年に取得しました。

ところが博士号取得後、彼がヒムウィッチ博士から誘われたのは精神病の研究をしないかという仕事で、全く畑違いのそのポジションを受けたことがその後の成功の端緒となりました。人生のターニングポイントはどこにあるかわかりません。その後 Werman という良き共同研究者を得て、前記のようなグリシンが抑制性神経伝達物質であるという驚くべき結果にたどりつきました(6)。受容体もGABAのところで述べたハインリッヒ・ベッツによって精製され(7、8)、現在ではこの事実を疑う人はいません。

まずグリシンの情報を受け取る受容体ですが、その実体はGABA受容体とよく似ていることがわかっています。すなわち図3に示したように、Cysループ受容体ファミリーの4回膜貫通型タンパク質が5分子集合して塩素イオンチャネルを形成し、グリシンが結合するとチャネルが解放されて過分極がおこるという仕組みです(9)。GABAの場合、受容体に結合して機能を阻害する化学物質としてベンゾジアゼピンが有名ですが、グリシン受容体の場合ストリキニーネが結合してアンタゴニストとして作用します。ストリキニーネはマラリアの特効薬であるキニーネとは何の構造関連性もない別化合物であり、マチンという植物が発明した強い毒薬です(横溝正史の作品「八つ墓村」では即効性の毒薬として使われています)。

以前はGABAは大脳を含む広い範囲での中枢神経系で作用し、グリシンはおもに脊髄や延髄で作用すると考えられていましたが、現在ではグリシン作動性シナプスは 1)脳幹や脊髄において呼吸や歩行などリズムを持つ運動の制御や、驚愕反射の抑制に関与する 2)大脳新皮質、扁桃体、海馬、網膜など様々な中枢神経領域にグリシン 受容体が存在し神経回路の興奮性を調節している 3)、大脳側坐核のグリシン受容体がアルコールやニコチンへの依存性形成に関与する など中枢神経系でも重要な役割を果たすことが示唆されています(10)。

A_20190630121101

最近ではクライオ電子顕微鏡の技術を用いて超低温で資料を観察する方法が発達し、グリシン受容体の立体構造が高い解像度で報告されています(11、図4)。グリシンの結合位置などもX線結晶構造解析法などにより解析が進められています(12)。

図4をみると、細胞外の部分が巨大で頭でっかちな受容体の構造にみえます。Cysループ受容体ファミリーはそのような傾向にありますが、ニコチン性アセチルコリン受容体の場合(13)よりもさらにアンバランスに見えます。グリシンというありふれたリガンドを特異的に結合させるには、それなりの複雑な仕掛けが必要だったのでしょうか。

A_20190630121201

他の神経伝達物質と同じく、グリシンにもトランスポーターが存在し、シナプス前細胞にグリシンを集積したり、シナプス間隙にあるグリシンを回収したりする仕事を行っています。GlyT1は主にシナプス近傍のグリア細胞に発現し、神経伝達終了後の余剰グリシンの回収にあたり、GlyT2はシナプス前細胞でグリシンの集積を行っています(14、15、図5)。図5は文献14の図を改変して表示しました。

グリシントランスポーターはGABAトランスポーターと同じく、Na+/Clー依存性トランスポーターファミリーに所属し、C末・N末ともに細胞内にある12回膜貫通型のタンパク質です。(16)。

GlyT2によって細胞に取り込んだり細胞内で生合成したりしたグリシン(図1)を神経伝達物質として使う際には、それをシナプス小胞にとりこまなければいけませんが、この仕事はGABAの小胞トランスポーターが兼業でやってくれることがわかっています(17)。ですからもとは vesicular gaba transporter (GAT)と呼ばれていたものが、vesicular inhibitory amino acid transporter(VIAAT)と改名されました。

A_20190630121202

参照

1)Graham LT Jr, Shank RP, Werman R, Aprison MH. Distribution of some synaptic transmitter suspects in cat spinal cord: Glutamic acid, aspartic acid, gamma-aminobutyric acid, glycine, and glutamine. J Neurochem, vol.24: pp.467-472.(1967)
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/6022905

2)Aprison MH, Werman R. A combined neurochemical and neurophysiological approach to the identification of CNS transmitters. In Ehrenpreis S, Solnitzky OC, eds. Neuroscience research. New York: Academic Press, vol.2: pp.143-174. (1968)
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/4152429

3)Aprison MH. The discovery of the neurotransmitter role of glycine. In Ottersen OP, Storm Mathisen J, eds. Glycine neurotransmission. Chichester, UK: Wiley, Chapter 1: pp.1-23.(1990)

4)Robert Werman, Notes from a Sealed Room: An Israeli View of the Gulf War.,
Southern Illinois Univ Press (1993)
https://www.amazon.co.jp/Notes-Sealed-Room-Israeli-View/dp/080931830X/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=robert+werman&qid=1561257416&s=english-books&sr=1-1

5)Robert Werman, Living with an Aging Brain: A self-help guide for your senior years., Freund Publishing House Ltd., Tel Aviv (2003)
https://books.google.co.jp/books?id=wsu3hQ_meTQC&pg=PR9&lpg=PR9&dq=robert+werman&source=bl&ots=bY8YN0lILc&sig=ACfU3U2AS5_DabYtchdllYmPTRwJo75Gvw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjOqvPzyf7iAhWSHqYKHW38Cy04ChDoATAHegQICRAB#v=onepage&q=robert%20werman&f=false

6)L.R.Squire ed., The History of Neuroscience in Autobiography. vol.3, Morris H. Aprison pp.2-37, Academic Press (2001)
file:///C:/Users/User/Desktop/グリシン/c1.pdf

7)Grenningloh G, Gundelfinger ED, Schmitt B,Betz H, Darlison MG, Barnard EA, Schonfield PR, Seeburg PH.,  Glycine vs GABA receptors. Nature vol.330: pp.25-26.(1987)
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/2823147

8)やぶにらみ生物論128: GABA その2
http://morph.way-nifty.com/grey/2019/06/post-143e31.html

9)Silke Haverkamp, Glycine Receptor Diversity in the Mammalian Retina by Silke Haverkamp., Web vision, The Organization of the Retina and Visual System.
https://webvision.med.utah.edu/book/part-iv-neurotransmitters-in-the-retina-2/glycine-receptor-diversity-in-the-mammalian-retina/

10)荻野一豊 グリシン作動性シナプスを増強するシグナル経路の同定 上原記念生命科学財団研究報告集, 32 (2018)
file:///C:/Users/User/Desktop/グリシン/ogino%20121_report.pdf

11)Du J, Lu W, Wu S, Cheng Y, Gouaux E., Glycine receptor mechanism elucidated by electron cryo-microscopy.Nature., vol.526(7572): pp.224-229. doi: 10.1038/nature14853.(2015)
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/26344198

12)Mieke Nys et al., Allosteric binding site in a Cys-loop receptor ligand-binding domain unveiled in the crystal structure of ELIC in complex with chlorpromazine., PNAS October 25,  vol.113 (43) E6696-E6703; (2016)
https://www.pnas.org/content/113/43/E6696

13)宮澤淳夫・藤吉好則、ニコチン性アセチルコリン受容体の構造と機能、蛋白質 核酸 酵素 vol.49 no.1, pp.1-10 (2004)

14)Robert J. Harvey et al., A critical role for glycine transporters in hyperexcitability disorders., Front. Mol. Neurosci., 28 March (2008)
https://doi.org/10.3389/neuro.02.001.2008

15)茂里康、島本啓子,抑制性神経伝達物質トランスポーターの薬理学、日薬理誌(Folia Pharmacol. Jpn.)vol.127,pp.279~287(2006)
file:///C:/Users/User/Desktop/グリシン/抑制性神経伝達物質トランスポーターの薬理学.pdf

16)http://morph.way-nifty.com/grey/2019/06/post-143e31.html

17)Wojcik SM et al., A shared vesicular carrier allows synaptic corelease of GABA and glycine., Neuron., vol.50(4), pp.575-87.(2006)
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/16701208?dopt=Abstract

 

| |

« 井上道義-新日本フィル:ショスタコーヴィチ交響曲第5番 | トップページ | サラとミーナ217: サラの表と裏 »

生物学・科学(biology/science)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 井上道義-新日本フィル:ショスタコーヴィチ交響曲第5番 | トップページ | サラとミーナ217: サラの表と裏 »