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2017年5月 5日 (金)

やぶにらみ生物論72: 呼吸

ハンス・クレブスらの研究によって、クエン酸回路の全貌が明らかとなり、ブドウ糖が体内でどのように代謝されるかが解明されました(図1)。しかし図1にATPという文字はどこにも書かれていません。酸素もどこにも現れません。クエン酸回路は呼吸の要なのにどうなっているのでしょうか?

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まずクエン酸回路に投入される物質(インプット)と、クエン酸回路で精製される物質(アウトプット)を図2にまとめてみました。科学者に課せられた課題は、このアウトプットがどのようにATP生成や酸素の消費にかかわっているかということでした。

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クエン酸回路の反応が行われている場所がミトコンドリアであることは、当時から推測されていたわけですが、その反応系を試験管の中に取り出すことは誰にもできませんでした。そのためにはまず細胞を壊して、反応系が無傷で保存されているミトコンドリアを取り出さなければいけません。つまり細胞は壊れているけれど、ミトコンドリアは壊れていないという状態です。これに成功したのがアルベール・クロード(1898~1983、図3)でした。

クロードはベルギー人で、子供の頃に母親を亡くして叔母の手で貧困の中で育ちましたが、第一次世界大戦がはじまったときにチャーチルにあこがれて英国のスパイ組織に従事し、戦後連合国のメダルと退役軍人のステータスを獲得することができて、進学の機会を与えられました。彼は高校に行ってなかったので、リエ-ジュ大学医学部に入学する前に鉱山学校で勉強して、鉱石を遠心分離機で分離する技術を知っていました。何が幸いするかわかりません。彼はこれを細胞にも応用して、ミトコンドリアを遠心分離機を使って無傷で取り出すことに成功したのです。この技術は細胞分画法とよばれるもので、後の生化学の発展に大きく寄与しました(1)。

ミトコンドリアはサイズが小さすぎて光学顕微鏡ではうまく観察できないので、構造を解明するためには電子顕微鏡を用いた研究が必要でした。クロードはルーマニア人のジョージ・パラディー(1912~2008、図3)を誘って電子顕微鏡を生物試料に適用する研究を進めてもらいました。二人は後年(1974年)ノーベル医学生理学賞を受賞しました。

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さてそのミトコンドリアですが、もともとは細菌だったと考えられているわけです。真核生物にとりこまれ、紆余曲折を経て現在のようにオルガネラとして細胞の中で生きています。ミトコンドリアの最もシンプルな構造図を図4に記します。外膜は真核生物由来らしく、細菌から引き継いだ特異な機構は内膜に集中しています。ウィキペディアによるとミトコンドリアの重量は体重の10%を占めるそうで、私達はまさしく真核生物と細菌の合作であることを思い起こさせます。

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ミトコンドリアは真核生物に取り込まれる前から、クエン酸回路で生成したNADHやFADH2、および取り込んだ酸素を使ってH+(プロトン)を膜間腔に追い出し、マトリックスと膜間腔の間に形成されたH+の濃度差による化学浸透圧を利用してATPを合成しています。このようなメカニズムに最初に気がついたのはピーター・ミッチェル(1920~1992、図5)でした。彼はその研究結果を1961年にNature誌に報告しました(2)。しかしその理論はあまりにも斬新なものだったので信じる人が少なく、職を得ることができなかったので、自宅をGlynn研究所と名付けて自費で研究を続けるしかありませんでした(3、4)。

この困難な状況はエフレム・ラッカー、香川靖雄(図5)らによって、ミトコンドリアの内膜に埋め込まれたATP合成酵素が発見されたことで改善され、ピーター・ミッチェルは1978年にノーベル化学賞を受賞しました。このあたりの事情は参照文献(3)に詳述されています。図4の膜内粒子とはATP合成酵素でした。この酵素は複雑で巨大な構造をとっており、まだ正確な分子量は明らかになっておりません。

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現在の理解では、図6に示されるように膜貫通システム複合体 I、III、IV、およびそれを補佐するシステムIIによって、NADH、FADH2、酸素を使ってプロトン(H+)をマトリックスから膜間腔に排出するポンプを駆動し、排出されたプロトンが化学浸透圧によってマトリックスに回帰する際に、そのエネルギーを利用してATP合成酵素がADPからATPを合成するということになっています(5、6)。

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複合体 I についてウィキペディアの受け売りをしますと、図7のように、「複合体 I では、解糖系およびクエン酸回路から得られた NADH から2つの電子が取り除かれ、脂質可溶キャリアであるユビキノンに移される。ユビキノンの還元生成物であるユビキノールは膜の内部を自由に拡散し、次の複合体 III に電子伝達を行なう。複合体 I はプロトンポンプ機構(プロトンが膜を通過する機構)およびキノンサイクル機構を用いて4つのプロトンを膜を通して移動させ、プロトン勾配を作る」 ということになっているそうです(7)。ユビキノンの還元について関心のある方は(8)をご覧下さい。複合体 I が行っていることの収支式は

NADH + ユビキノン(Q) + 5H+ in → NAD+ + ユビキノール(QH2) + 4H+out

ということになります。

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プロトンの排出を行っている複合体は細菌とミトコンドリアではかなり異なっているようですが(7)、ATP合成酵素は全生物共通で進化の痕跡がみられない(9)というのは驚異的です。

ATP合成酵素の研究でポール・ボイヤーとジョン・ウォーカーが1997年にノーベル化学賞を受賞しましたが(図8、参照10)、その影には木下一彦(~2015、図8)らの革命的な研究があったことは確かでしょう。ボイヤーらはATP合成酵素がタービンのように回転するという仮説をたてていましたが、誰もそれを証明することができなかったのです。しかし木下らは酵素を標識することによって、顕微鏡下でその回転を可視化することに成功しました(11)。これによってボイヤーは98才という高齢でノーベル賞を受賞することができたと思われます。

木下らは当然ノーベル賞を受賞すべき成果を上げましたが、ボイヤーが高齢であることから迅速にということで、彼と結晶化して分子構造を解析したジョン・ウォーカーが、とってつけたような Na-K-ATPase のイェンス・スコウと共に授賞されました。論文発表の年に授賞というのはいくらなんでも無理だったのでこういうことになったのでしょう。

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ATP合成酵素は膜間腔につきだしているF1部位と、ミトコンドリア内膜に埋め込まれているFo(エフオー)部位からなる巨大なタンパク質複合体です(図9)。プロトンの流れによってF1部位の γ サブユニットがタービンのように回転し(反時計回り)、ATPを合成するエネルギーを生み出していると考えられます(12)。ATP合成酵素によってマトリックスにとりこまれたプロトンは、すぐに酸素と結合して水になってしまうので、クエン酸回路とプロトンポンプが動いている限り、内膜の外と内でプロトンの濃度差がなくなる状態にはなりません。

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以上のようにエムデン・マイヤーホフ系はミトコンドリア外の細胞質で、クエン酸回路はミトコンドリアマトリックスで、プロトンポンプとATP合成酵素はミトコンドリア内膜で機能しています。

木下一彦先生は2015年の秋に、南アルプス小仙丈岳付近で滑落死するという不慮の死をとげられました(13)。私もこのあたりは何度も歩いたことがありますが、夏山では何の問題もないハイキングコースのようなところでも、凍結していると危険なことをあらためて痛感しました。ご冥福を祈ります。

参照

1)https://en.wikipedia.org/wiki/Albert_Claude

2)Peter Mitchell, Coupling of phosphorylation to electron and hydrogen transfer by a chemi-osmotic type of mechanism. Nature  vol. 4784, pp. 144 - 148 (1961)

3)香川靖雄 「ATP合成酵素の発見から人体エネルギー学まで」 日本蛋白質科学会 シリーズ「わが国の蛋白質科学研究発展の歴史」第4回 pp. 23-32
http://www.pssj.jp/archives/files/ps_history/PS_History_04.pdf
(管理人=本稿執筆者註:この文献はいつ出版されたのか確認できませんでした。日本蛋白質科学会が設立されたのが2001年なので、それ以降であることは確かです)

4)杉晴夫 「栄養学を拓いた巨人たち」 講談社ブルーバックス (2013)

5)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2

6)電子伝達系と酸化的リン酸化
http://kusuri-jouhou.com/creature1/dentatu.html

7)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E4%BC%9D%E9%81%94%E7%B3%BB

8)ユビキノンについて
http://hobab.fc2web.com/sub4-CoQ.htm

9)https://ja.wikipedia.org/wiki/ATP%E5%90%88%E6%88%90%E9%85%B5%E7%B4%A0

10) The Nobel Prize in Chemistry 1997,
https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1997/

11)Noji H1, Yasuda R, Yoshida M, Kinosita K Jr.,  Direct observation of the rotation of F1-ATPase.,  Nature, vol. 386(6622): pp. 299-302. (1997)

12)野地博行 安田涼平 木下一彦 「回る酵素の観察」 バイオサイエンスとインダストリー vol. 56, no.10, pp. 665-670 (1998)
http://www.k2.phys.waseda.ac.jp/PDF/1998BioSI_Noji_RotEnz.pdf

13)明滅する一筋の光が我々にみせたもの ~木下一彦さんの追悼に代えて~
http://slight-bright.hatenablog.com/entry/2016/01/28/225438

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