小旅行
4人の相部屋だがカーテンはきちんと閉じられ、その狭小な空間で私は天井のシミをみつめる。たった1週間だが、もう病院にはすっかり飽きた。天井のシミの形もすっかりなじんでしまった。隣のベッドでは誰かがせきこんでいる。その音がしだいに遠ざかり、シミの形もぼんやりとして、まだ午前11時頃だというのに私は眠りにおちた。
目が覚めると、もう夕闇がせまっていた。
暗い船着き場には数人の客がベンチに座って待っていた。誰も何も話してはいなかった。知り合いは誰もいなかった。
私は誰かに話しかけてみようとしたが、声を出すことができなかった。
まあいいか、そのうち船が来てどこかに連れて行ってくれるんだろう。
「それにしてもここは何処なんだ」
しばらくすると、遠くに小さな明かりが見え、しだいに近づいてきた。遠くからマーラーの交響曲第9番の冒頭の音楽がきこえてきた。
https://www.youtube.com/watch?v=eaaAbrkOH_Y
カローンのような風貌の男がたくみに船を漕いで、静かに接岸した。男はゆっくりと船を降り、係留用ロープを杭に結んで、私たちに船に乗るように手招きした。全員が乗り込むとカローンはロープをはずして、ギイギイとまた船を漕ぎだした。誰も声を発せず、ただ櫂をさばく音と、カローンの荒い息づかいが聞こえるだけだった。私はふとこれは三途の川で、これから私たちは冥途に送られるのではないだろうかと思った。
しばらくすると薄暗がりのなかで、中州のような砂地が見えてきて、数人の男女が何か叫んでいた。ひとつだけある小さな岩の上で、セイレーンのような姿の女が狂ったように歌っていた。私にはその顔が岡田有希子のように見えた。
https://www.youtube.com/watch?v=B7cPgL70fHo
カローンが突然漕ぐのをやめて話し始めた。
「あの者達は川を渡るのにふさわしくないので、中州に下ろした。心が穏やかになるまで向こう岸に渡らせることはできない」
カローンは中州を一瞥すると、私たちの方に向き直り告げた。
「この中州を過ぎると、お前達は別の姿になる。どのような姿になっても心配はいらない。それは神が決めることだ」
そう言うと、彼はまた漕ぎ始めた。
私があらためて自分の姿を見ると、カローンが言ったように、手足がなくなり幽霊のような状態になっていた。これでよいのだろうか?
船が向こう岸に接近すると、濃い霧が漂ってきて、視界が数メートルくらいになってしまった。向こう岸には船着き場はなく、岸に接近すると、カローンがひとりづつ背中を押して、霧の中に送り出してくれた。
私たちはもはや自分の意思で移動することはできず、かすかに吹いている風にゆられて漂うだけになっていた。声も失って誰とも話すことはできない。ただ視覚だけはしっかり残っていた。霧が晴れてくれれば、どんなところかわかるかもしれない。しかし、いくら時間が経っても霧が晴れることはなかった。ただ暗闇になる気配はない。ここは日夜や四季がない場所なのだろうか。
かなり長い間霧の中を漂っていると、向こうから亡父がやってくるのが見えた。すれ違ったときに視線が合ったような気がした。そうか、ここでは死者と会うことができるのか。 と言ってもすれ違うだけだが.....。それでもこんな何もない場所にもわずかな楽しみがあることがわかって、私は少し落ち着いた気分になった。
霧はいつまで経っても晴れなかった。きっとここはそういう場所なのだろう。またしばらく漂っていると坂井泉水と出会った。むこうはこちらに気がつかないようだった。そりゃそうだ、知り合いじゃないんだから。それにしても坂井泉水は川を渡ることができたんだ!
https://www.youtube.com/watch?v=7o13VEU5vus
そのうちグスタフ・マーラーにも会えるのかと思って漂っていると、目の前を昔飼っていた猫のクロパン号がサーッと通り過ぎて行った。私に気づいてくれただろうか?
ここでフラフラと漂いながらずっと待っていると、そのうち今生きている家族や友人たちや、サラとミーナにもまた会えるのかなと思うと、この場所もそんなに悪くはないかもしれない。
そんなことを考えているうちに、私は意識を失ってしまった。
どのくらい経過したのだろう。突然、私はまた病室の中に放り出された。見覚えのある天井のシミが見える。すっかり顔見知りとなった小太りの担当看護婦が、採血の準備をしていた。「お目覚めですか」と看護婦は皮肉っぽく言うと、私の腕をゴム管で縛って、注射針をブスリと突き刺した。
看護婦がカーテンを閉めないで去ったので、欅(けやき)の緑が窓いっぱいに広がっているのが見えた。
「もう少し生きろってことかな.....」 と私はつぶやいた。
(画像は wikipedia より)
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