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2015年6月14日 (日)

政権の裏側

フランスの週刊誌L'Obs (旧 Le Nouvel Observateur)の2015年5月21日号の記事
PAGES D'ECRITUREの管理人の方が翻訳・アップされています。

原著のタイトルは
Japon LA FACE CACHEE DE SHINZO ABE(アベシンゾーの隠された顔)

サブタイトル
Loin de son image de reformateur economique, le Premier ministre japonais est lie a une organisation d’extreme droite revisionniste qui prone un retour a l’empire

執筆記者:VINCENT JAUVERT

ソース:http://ameblo.jp/cm23671881/entry-12036692291.html

以下拡散します
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それは国際政治で、大幅に無視されているとはいえ、主要な事実だ。世界第三の経済大国である日本は、数か月前から、(総理大臣、安倍晋三も含めて)閣僚の4分の3が、歴史修正主義で権威主義の極右団体、「日本会議」と呼ばれる、目立たないが影響力のある団体に属していることだ。

 2012年12月に政権に復帰したとき、安倍晋三が、新自由主義的であると同時に戦前に郷愁を抱く強硬な右翼出身の政治家であることを知らない者はなかった。プーチンやインドの国粋的指導者モーディを称賛していることも知られていた。安倍が近かった、祖父の岸信介が1932年に大日本帝国によって併合された満州のナンバー2であり、次に戦争中に東條内閣の一員であったこと、そして結局、1945年の敗戦の後、A級戦犯として投獄されていたことも、誰もが知っていた。しかし明らかに、反動的で反民主主義的なイデオロギーへの安倍晋三の政治的根強さは過小評価されていた。「数か月前まで、安倍の最終目的は有名なアベノミクス(編集部注:安倍の名を冠した経済再建計画)によって日本経済を立て直すことだと多くの人が考えていた」、上智大学‘国際教養学部)教授の中野晃一は分析する。「今日、安倍が本心を隠さないで行動しているのか、戦後に採択された平和的で自由で民主的な憲法の根本的な改変を日本人により容易に”売り込む“、という目的のためだけに経済的成功を追及しているのではないかと疑問視されている。そうして、彼が1997年の創設時から加入している団体、日本会議に特有の、帝国主義に憧れを持つ、古い秩序への回帰を押しつける目的でも。」

 「逆説的だがこの非常に重要な団体は日本では未だに真価を認められていない」、日本版『リベラシオン』ともいえる『東京新聞』に昨年夏、日本会議に関する初めての長い記事を書いた佐藤圭は言う。「その出発から、日本会議はレーダーに現れないようにあらゆる注意を払ってきた。広告も出さないし、テレビにも出ない。戸別訪問的な活動をしながら、視線の及ばないところで前進していた。その集会はメディアに開かれていない。そして、会員たちには会談の間も、写真を撮る権利もない。」 この信じられない「ステルス性」にはもう一つの理由がある。「日本会議は、より反動的な、地方で発展してきた」と、日本の右翼運動の専門家である法政大学の政治学者、山口二郎は説明する。「大手メディアは、元々ローカルだったこの団体を見下していた。2012年12月の安倍内閣の指名と、さらに昨年秋の内閣改造後、日本会議所属の閣僚の数がさらに増えて、その強大さに面食らうまでは。それまでは田舎の、片隅のものと見なされていたこの極右団体が、日本の政治の中心にいたのだ。」

 日本会議は1997年、一つは満州侵略を率いた帝国軍元司令官によって、もう一つは主に神道の宗教団体によって設立された、二つの極右団体の合併により生まれた。「反動的で1930年代に郷愁を抱くこれら二つの集団は、日本が戦争中に行った残虐行為の過ちを告白することに耐えられなかった。彼らによれば、日本人は帝国に誇りを持たなければならなかった」と、山口二郎は説明する。「分裂したままではイデオロギー闘争に敗北しつつあったと理解したときに、合併した。」 彼らの自覚は1995年8月15日に起こった。村山首相が有名な謝罪宣言を述べたときである。その日、世界は第二次世界大戦終結の50周年を記念していた。この機会に、日本が1930年代と1940年代に、「植民地支配」を押し付けるためにアジア諸国を「攻撃した」ことを、日本の政府のトップが初めて、公に、そして公式に認めたのだ。この認識は、帝国軍が政敵奴隷に頼っていたと1993年に認めた、内閣のナンバー2、河野洋平の宣言の後に来たものだ。婉曲に「慰安婦」と呼ばれた女性たちは、朝鮮やフィリピンの村で誘拐され、強制的に軍の売春宿に住まわされた。反動主義者と超国粋主義者には、もう我慢できなかった。反論し、新しい運動、つまり日本会議を建設することが急を要した。新しい団体の事務総長職は、1970年代の極右学生のリーダーで、今も強大な力を持つ、椛島有三なる人物に委ねられた。そしてこの団体は今、3万5千の会員と200の支部を数える。

289 PARLEMENTAIRES MEMBRES
(289人の議員メンバー)

10年前に祖父が亡くなった安倍晋三は1997年に国会議員になる。お友だちと一緒に、直ちに「日本会議」に、次いで日本会議を支持する議員団体に加入する。「当時彼らは、保守のジミントーでも周辺的だった」と、中野晃一は言う。「20年近く経った今日、彼らはジミントーと内閣を席巻している。そして日本会議は、国会の40%に相当する、289人の議員を集めている…」 彼らのスローガンとは? 戦後の日本、「アメリカに押し付けられた」制度と生活様式から決別することだ。彼らは、「勝者の正義」、戦争犯罪人を裁いた東京裁判の正当性を認めない。彼らは歴史を自らの味付け、敗者の歴史を書き直したがっている。日本帝国はアジアの民衆を「解放した」と声高らかに断言したい。1938年の日本軍による南京大虐殺は作り事であり、最悪でも、民間人に変装した数百人の中国兵が死亡しただけだ(日本人も含めてまともな歴史家は少なくとも数万人の民間人が拷問された後に殺戮されたと考えているのに)。日本会議の歴史修正主義者らは、「慰安婦」は勇敢な日本兵を慰めて月末に手取りを増やして喜ぶ、単なる自発的な売春婦だったと断言する(この主題に関して帝国軍に反対する証言が圧倒的であるにもかかわらず)。

CHANGER LES LIVRES D'HISTOIRE
(歴史書を変えること)

日本会議の目的は、歴史書を書き換えることだ。有利な状況を作ることから始めた。間もなく、中学校の教科書は、歴史学者の視点と同じく論争中の問題に関して「政府の公式の立場」を言及しなければならなくなる。「別の言い方をすれば、歴史修正主義のぱっとしない教師が、南京で民間人の死者はなかったと断言すれば、それが我々の子どもたちの教科書に書き込まれることになる」、政治学者の中野晃一は説明する。教育に関して、日本会議は「愛国」教育への回帰を熱望する。彼らの夢は、1890年代の帝国時代の法にできるだけ早く近づくことだ。個人に対して天皇への全面的な服従を押し付け、将来の神風の複数の世代にわたって洗脳してきた法に。

 これで全てではない。「アメリカの圧力下で」採択された、1947年の平和憲法を、日本会議は根本的に変えようとしている。その最初の標的は、第9条だ。この中で日本は「戦争を、永久に放棄」している。国粋主義者は世界のどこでも、そして「自衛力」だけではない軍隊を望んでいる。「安倍と日本会議にとって、第9条の廃止は決定的に重大だ。なぜならこの条文が軍国日本との決別を意味しているからだ」、『朝日新聞』論説委員の大野博人は説明する。運動は既に進行中だ。昨年7月、政府は初めて、「自衛隊」が日本の国土を離れて同盟国を助けることを憲法9条が認めていると断言して、同条の解釈を変更した。それが最初の突破口だ。日本会議は他の条文、最初に婚姻における男女の平等に関する第24条と決別するために、そこに殺到しようとしている。彼らにとってもちろん、夫は全ての領域で配偶者を支配しなければならない。彼らはまた、戦前の風習に戻ることを望んでいよう。学校では、まず男子、次いで女子の五十音順で点呼されること… とりわけ、戦後の裁判で裁かれた戦争犯罪人を含む、死亡した兵士が祀られる、靖国神社に国家が関わることを邪魔する、宗教と国家の分離に関する16条も廃止することを目指す(中国と韓国の気分を害して、安倍晋三は2013年12月、首相就任1周年に靖国神社を参拝した)。最後に、明らかに、日本会議は天皇が、一種の権威主義的民主制に変質した日本の政治の中心に戻ることを望んでいる。

 安倍とそのお友だちの反動主義者は、どこまで行くことができるだろうか? 日本の誰もが、第二次世界大戦終結70周年記念の8月15日に首相が発するに違いない声明を待っている。前任者たちの宥和的な宣言と、どの位まで距離を置くことになるだろうか? 「ホワイトハウスは、地域の他の同盟国を失う恐れがあるため、余りにも反動主義の臭いがすることは受け入れられない。」 そして、国民がいる。安倍の目的は、2016年7月の参院選を利用して、国会で憲法を変えるために必要な圧倒的多数を得ることだ。それができるだろうか? 「日本会議はエリートの運動だ」、中野晃一は言う。「大多数の国民は、その思想の大部分に反対している。しかしその受動性のために、特にアベノミクスが上手く行っていれば、国民はされるがままになりかねない。」 少なくとも今のところ思いがけない人物が抵抗勢力になり得る。81歳の天皇、明仁だ。日本会議が政治問題に戻るのを待っている、その人である。さる1月、新年の祝辞に際して、天皇は行間で、歴史の反動的な解釈に反対であることを示した。2月、長男である皇太子、55歳の徳仁殿下はさらに雄弁だった。極めて稀な記者会見の席で、皇太子殿下は、戦争の歴史が「正しく伝えられる」ことを望んだ。逆説的に、皇室は今や、日本の自由民主主義の最も優れた盾となっている。

L’OBS/No2637-21/05/2015

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(管理人のコメント)

フランス国民に安倍政権の本質が知らされたことは喜ばしいことです。

旧西側諸国から総スカンを食うまで、日本国民は安倍政権の危険性に気がつかないかもしれないので、このような記事が他の国家においても書かれ、読まれることを期待したいと思います。

日本会議についての他の記事:
http://hbol.jp/25122 安倍内閣のほとんどの閣僚が日本会議・神道議連のメンバーであることがわかります。

私はこれらの記事の中で、日本会議を裏で仕切っている椛島有三という人物に興味が湧きました。そこで少し調べてみると菅野完という方がまとめておられることがわかりました http://togetter.com/li/792912

これもコピペしておきます。ただあまりに長いので少しはしょりました。ごめんなさい。

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椛島有三(かばしまゆうぞう)は、昭和20年 佐賀県生まれ。幼少のころ、生長の家に入信。そのころの生長の家がどれほどの国粋主義だったかは、当時の谷口雅春の「限りなく日本を愛す」等を参照。

椛島はその後、昭和39年長崎大学に入学。
椛島有三が長崎大学に進んだのは、教員になりたかったからだそうだ。
しかし、もう入学当初から、学生運動にもまれだす。

昭和41年。「天才的オルガナイザー」と後年評される安東巌が長崎大学に入学。安東は、高校生の時に肺結核になり、生長の家の教えで生き残ったという人物。肺結核の長期療養のため、大学入学したときは、27歳。

昭和41年7月。社青同解放派による、長崎大学西町学生会館占拠事件が発生。

椛島 安東 および日下部隆の三名は、「学生有志会」を結成し、占拠反対スト反対の論陣を張るが、リンチにあうなどして、苦戦する。彼ら民族派学生運動は苦戦するも、椛島 安東の配下の日下部が、教養学部自治会委員長選挙に立候補。民青や反帝学評の対立候補を抑え、委員長に就任。
60年代以降、民族派学生が自治会を掌握する、全国初のケースとなる。
このとき、椛島 安東コンビがとった戦略が、「自治会とサークルと一般ノンポリ学生を組織化する」という手法。この手法は、「長崎学協方式」と呼ばれ、九州の各大学に広がっていく。

九州の各大学に広がった長崎方式は、生長の家のネットワークがベースで、このネットワークによって、衛藤晟一や井脇ノブ子など、各地の大学の生長の家系サークルが組織され「九州学協」が結成される。

同時に東京でも、右翼学生。。。というか、生長の家の学生運動が中心となり、「反左翼」をスローガンにした右翼学生の組織化が始まる。左翼セクトに支配された早稲田正常化のためにできた早稲田学生連盟とかがそのハシリ。
この早稲田学生連盟の流れは、日本学生同盟になる(日学同)。
また、生長の家本体も学生の組織化をすすめ、「生長の家学生連合」(生学連)が全国的に作られる

横暴を極め内ゲバリンチなどを起こす左翼学生運動へのカウンターとして全国各地に同時多発的に発生した右翼学生運動は、当然の事ながら、「右翼版、全学連作ろうぜ」と糾合する動きになる。ベースとなったのは、最大の組織力を誇る、生長の家学生連盟。

それに、右翼学生運動の九州のスターは、椛島と安東。 東京のスターは、鈴木邦男。みんな生長の家の信者だし、生長の家を軸として集まるのは当然の帰結だった。

生長の家学生連盟を基盤に、九州方式を運動方針としてすえた、全国学協が結成されるのは、昭和44年。
委員長 鈴木邦男
副委員長 井脇ノブ子
副委員長 吉村和裕
書記長 安東巌
が、執行部の顔ぶれ。
椛島有三は、九州学協代表として、中央執行委員の一員になる。

全国学協は目覚しい成果をあげ、つぎつぎと全国各地の大学で自治会選挙に勝ち、左翼各セクトから自治会を「解放」していく。この成果を踏まえ、「全国学協(=生長の家)を中心に、右翼版の全学連つくろうず!」という動きが出、準備会がスタートする。

しかし、時代が遅すぎた。
もともと、右翼学生運動は、左翼セクトへのカウンターとして発生している。
全国学協がセクトから学校を解放しだしたのは、昭和44年。安田講堂の翌年だよ?日大紛争だって、44年には下火になりつつある。

つまり、右翼学生運動は、「敵」を失った。

敵を失った右翼学生運動は、ご多分にもれず、内ゲバに走る。
右翼版全学連を作ろうと、当初は友好関係にあった、日学同と全国学協が対立しだす。

この内ゲバは、左翼学生運動のように暴力にはよらない。密告と噂話の連続という極めて陰湿な内ゲバ。唯一、内ゲバで暴力を明確にふるった記録が確認できるのが鈴木邦男。
というか、鈴木邦男は、窮地においこまれてた。

鈴木邦男は生長の家系右翼ながら、右翼学生運動で注目を浴びるようになったのは、早稲田闘争で、日学同に近い。生長の家系からは、日学同だと思われる。
一方、生長の家なので、日学同からは、全国学協じゃないか と見られる。

つまり、鈴木邦男は、両サイドから密告の嵐にあうわけ。

なので、鈴木邦男は俄然、旗色鮮明にする必要があった。かつての友情を捨てて、日学同に物理的なゲバルトをしかけた。。。。が、これが、味方のはずの生長の家系全国学協に嫌われる。

「暴力ふるってるなんて、なんて下品な!」「これじゃ左翼と一緒じゃないか」と

ここで、安東と椛島がとった戦略が、生長の家本体。。。つまり谷口雅春に、「鈴木は、生長の家の教えに反して、暴力ふるっとります。いけませんなあれ」と密告するという手法。

で、安東は同時に、全国学協の内部に入念な根回しをして、鈴木委員長の解任動議をかけて、鈴木をパージする。生長の家本体からも学生側からも後ろ盾を失った鈴木邦男は、完全にパージされた。

その後、安東椛島体制で動く全国学協は、運動を展開するが、彼らが運動しなくても、左翼セクトによる学生運動そのものが下火になるので、「学園正常化」は自然と達成されちゃう。鈴木をパージしたころには、もう、全国学協が「新右翼の学生運動!」と注目されることさえなくなっていた。

その数年後。。。

左翼セクト学生による運動が下火になり、そのカウンターでしかない右翼学生運動も目標を失い、低迷を続け、だらだらとした日常を続けていたある日、「あの事件」が起きる。そう。三島由紀夫事件。

三島事件は右翼学生運動に衝撃を与えた。
衝撃が走ったのは、右翼だけじゃないな。日本中だな。

この衝撃から、いわゆる、「民族派」というものが生まれたのはみなさんご承知のとおり。

一水会 統一戦線義勇軍 野村秋介 犬塚博英 鈴木邦男。。。など、みなさんが「民族派」として認識する人々が、メディアで取り上げられたりするのは、あの事件の衝撃で飛び出した人たち。

しかし、飛び出さなかった奴らがいるのよ。「民族派」にならなかった奴らが。
そう、それが、安東と椛島

安東と椛島は、全国学協のOB組織 日本青年協議会を結成し、「九州学協方式」を社会人でもやろうと運動をしだす。もちろん彼らの母体は、生長の家。

当時の生長の家は、政治進出に熱心だったので、それに対応する青年社会人運動が必要だったこともある。

安東と椛島はこの日本青年協議会をベースに、様々な社会運動で、実績をあげることとなる建国記念日法制化 優生保護法等々。。。。

だが、安東と椛島の根城となった全国学協だが、その後の三島裁判の総括とかで、学生たちと安東椛島の路線が対立し出す。

ついに、全国学協執行部は、OB組織の青年協議会を除名する。

まあ、安東も椛島も、社会人として社会運動をやってて、学生組織必要なかったからあんまり痛手じゃないけど

ただ、困ったのは、生長の家本部の意向よ。
安東と椛島の路線は、「学生と青年の政治運動」として、生長の家から是認されてたけど、もはや安東と椛島には、学生の後ろ盾がない。そのため、安東と椛島は別の学生運動を組織する必要があった。

それが、反憲学連。

そう。あの日本刀もつ連中ね。

全国学協分裂の住み分けがすごい

非反憲学連=大衆の天皇敬慕の情を革命の材料とする

反憲学連=憲法こそが民族抑圧の象徴であるのであらゆる政治運動は改憲に収斂されるべきだ

という路線対立。

むろん、後者が、安東と椛島w

安東と椛島は

社会人=日本青年協議会
学生=反憲学連

の二本立てで社会運動を進めていく。
彼らは、鈴木邦男や犬塚博英のように、「現場」や「言論」という活動はしない。
その代わり、署名 請願 講演会という手法をとる。

安東と椛島が、署名 講演会 請願という手法をとったのは、その当時、「生長の家から政治家になる」という路線が鮮明にあったから。玉置和郎をはじめ生長の家は参院全国区で当選できる政治家を持ち始めてた。それにその議席数は増えてるし、候補者も年功序列的に、「次、君」みたいになってる

安東も椛島も、「あと三年まったら。あと六年まったら、僕も参議院議員」って気持ちがあったのだろうと思う。

しかし、その路線の破局がくる。

生長の家、政治撤退宣言だ

谷口雅春の最晩年。生長の家は突然、政治からの撤退を宣言する。

これで、玉置和郎や村上正邦のように、生長の家やその周辺での研鑽の先での政界進出ていう 安東と椛島のキャリアプランが潰れる。

それに、政治撤退宣言のあとの生長の家は、急速に左翼になる。

キャリアプランをたたれ、本籍地が急速に左翼化した安東と椛島は、その後、さらに、「地下化」する。

日本青年協議会が、日の丸強制化 PKO法案 などなどありとあらゆる「反動的法制化運動」の事務局となるのは、それからの話。。。

いま、日本青年協議会は、日本会議の事務方をしている。

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