組織標本の作成 よもやま話 その1 固定
1.なぜ固定するのか?
# 標本というのは生のものなので、そのままではどんどん変化します。細胞が持つタンパク質分解酵素などの作用とか、細菌の繁殖とかのために構造が変化してしまうので、生サンプルは直ちに固定液に浸さなければなりません。実験動物の場合、殺して血液中に固定液を流しこむという操作がよく行われます。この操作(灌流固定)を行った場合はあせる必要はありません。固定液がタンパク質と反応すると、タンパク質は機能を失います。タンパク質分解酵素などは活性を失いますし、細菌は死滅します。ただ血液に注入したホルマリンで固定が難しい組織もあります。例えば表皮には血管が来ていないので、手早く切除して固定する必要があります。また生きている人から切除した組織についても同様です。
# 顕微鏡で標本を観察するには、通常標本を薄く切ってスライドグラスに貼り付けて観察します。一般に柔らかいものは、巻き寿司とかできたての食パンのように薄く切ることは困難です。実際には固定した標本に含まれる水分をパラフィンに置き換えたり、凍結させたりして、全体を硬い固体にしてから薄切します。ここではパラフィンに置き換える手法を用いることを前提として、以下に述べます。
2.固定液について
# 電子顕微鏡用の標本の場合、強力な固定剤であるグルタルアルデヒドを用いる場合が多いですが、これは小さなサンプル(1mm 四方くらい)にしか使えません。グルタルアルデヒドは瞬時にしてサンプルの表層をガチガチに固定してしまうので、かえって内部に固定液が浸透しにくくなり、大きなサンプルには使えません。よく実験に使われる線虫(土の中に住んでいる体長1mmくらいの生物)を固定したところ、体表は固定されたが、体内では幼虫が成長したという話を聞いたことがあります。また強力すぎて、抗原の抗体に対する反応性を損なうので、免疫組織化学には使えません。
# というわけで、通常はホルマリン液が固定液としてよく使われます。試薬屋さんで売っている10%中性緩衝ホルマリン液でたいていは問題ないと思います。この液には4%のホルムアルデヒドが含まれており、かつリン酸緩衝液でpHが中性に保たれており便利です。ただパラホルムアルデヒドを使う人も多くて(私も以前にはよく使っていました)、この場合粉末の試薬が中性リン酸緩衝液にすんなり溶けてくれないので、水酸化ナトリウムでややアルカリ性にして溶かして、あとでpHを調整する必要があります。まあなれればどうということはありませんが。どちらがよいかは一概には言えません。最初に両者で比較して差がなければ、中性緩衝ホルマリン液がお勧めです。
#中性緩衝ホルマリン液を使いたくないという人の多くは、安定化剤としてメタノールが含まれていることを問題視します。10%中性緩衝ホルマリン液には1%程度のメタノールが含まれています。これで脂質が溶解するというわけではありませんが、何らかの影響はあるかもしれません。しかしたいていの場合は問題ないと思います。ホルマリンはそんなに安定な物質ではないので、安定化剤が含まれていても長期保管は避けるべきでしょう。特に自作のパラホルムアルデヒド液は不安定なので、用時調製が必要です(凍結保存しておけばよいという人もいます)。これが中性緩衝ホルマリンを推奨する主な理由です。最近ではワインエキスでホルマリン臭を消したものも発売されているようです(http://wako-chem.co.jp/siyaku/qa/ccn/pdf/ccn51.pdf)
#ここまでの話はあくまでも哺乳類の組織を固定する場合のお話で、無脊椎動物・魚類など他の生物ではホルマリンによる固定はうまくいかないようです。実は大変古典的な実験手技であるにもかかわらず、固定に関する研究はまだまだ進んでいないのが現状です。
http://nrifs.fra.affrc.go.jp/news/news25/2502-1.html
3.固定する時間と温度
室温では4時間、冷蔵庫では一晩とされていますが、もちろん標本の大きさや種類によって違います。私の場合は最も固定されにくい(固定液が浸透しにくい)組織のひとつである毛髪を取り扱うことが多いので、4℃で最低3日間は固定します。長期固定によって抗原が抗体と反応しにくくなることもあり得るので、毛髪研究者は一定のハンデを背負うことになります。
4.ホルマリン固定のメカニズム
ホルマリン固定の化学的なメカニズムについては大まかなことは判明していますが、すべてが明らかにされているとはいえず、現在でも研究が行われています。
http://www.mutokagaku.com/products/reagent/solvent/formalin/
https://www.nichirei.co.jp/bio/tamatebako/pdf/tech_05_dr_fujita.pdf
5.ホルマリンにまつわる話
私たちや病理研究室に勤務する人たちはホルマリンの毒性から逃れられません。学生時代の実習室はいつもホルマリン臭がしていましたし、廊下にホルマリン漬けの標本が多数置いてあったりしてひどいものでした。現在ではさすがに大幅に改善されているようです。そういう職業ではない一般の人も安心はできません。10年くらい前までは養殖のトラフグやヒラメの寄生虫退治のためにホルマリンが使われていたようです。TVでいけすに大量のホルマリンが投入されている様子を見たことがあります。近傍でアコヤガイが壊滅的な被害をうけたことで発覚したようです。現在では多分使われていないと思われますが、海外では知るよしもありません。エビなどではいまだに使われているという情報もあります。感作されてシックハウス症候群になる人が出るのもうなずけます。
次の記事 組織標本の作成 よもやま話 その2 パラフィンケーキの作成1 に続く
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