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2008年12月21日 (日)

万福ファンタジー (阿修羅像の東京国立博物館展示によせて)

1万福は百済宮廷お抱えだった仏師の家系に生まれた。子供の頃から卓越した絵画の才能を認められたが、当時最新の乾漆の技術に関心を持ち、祖父・父と同様仏師への道を歩み始めた。寺に通ううちに仏教徒となった。祖父も父も仏教徒だったので、それはごく自然なことと思われた。乾漆とは木と粘土で大まかに像の形をつくった後、麻布と漆と麦粉のペーストを重ねて丁寧に造形し、さらに漆と麦粉・針葉樹の葉などを混ぜ込んだペーストで細部を仕上げるという手の込んだ技術だ。

若い頃から万福の造形の才能は抜きんでていて、住職である老師にも可愛がられた。そのまま平穏に仕事を続けていれば、朝鮮半島の歴史に残る大芸術家として名を残しただろう。しかし運命は彼にその道を歩ませなかった。祖父の時代には隆盛を誇っていた百済も今は唐の支配下にあった。唐の植民地政策は過酷で、独立をめざす反乱軍が蜂起し、万福の父もその中に巻き込まれていた。駐留軍と独立派反乱軍の激しい戦闘で、都にも各所に火が放たれた。万福が仕事場の寺院から帰宅すると、家は焼け、父母兄弟の姿は見あたらなかった。隠れていた知人の話によると、独立派関係者が多く住んでいる万福の家あたりには次々火が放たれ、逃げ出す人々を唐の兵士が皆殺しにしたそうだ。万福の父母や兄弟も斬られたらしい。見覚えのある近隣の人々の悲惨な死体がいくつか放置されていた。万福は狼狽しながら家族を探そうとしたが、唐の兵士が遠くから走ってくるのが見えた。万福は話していた知人と共に必死に逃げざるを得なかった。

行き場を失った万福が寺に戻ると、老師が万福を呼んで言った。
「唐軍の見境のない所行から見て、ここも安全とは言えない。寺は反乱軍が逃げ込む場所とみられている。おまえは私の知人の僧がいる倭国に逃れたほうがよいであろう。一筆書いたものを渡すから、これをその僧に見せて相談してみなさい」
万福は「そんな見知らぬ国に行くことはできません」と答えたが、老師はさらに
「倭国には百済にもない大きな都があると聞く。国は栄え、仏に帰依する人も増えているそうじゃ。敏男がお前を倭国まで連れて行くと言っておる。何も心配することはない。早く行くのじゃ」と強く諭した。

万福は馬に乗り、寺男の敏男と共に間道を港の方に急いだ。振り返ると寺院の方にも火の手が上がっていた。老師は大丈夫だっただろうか。家族の屍はどうなってしまうのか。しかし今はその思いも封印するしかない。やっと港に出て敏男が準備してくれていた小舟の帆を上げ、遙かな倭国に向かって出発した。敏男は昔漁師をやっていたのを見込まれて、老師に万福の運命を託された男だった。対馬までは行ったことがあるが、その先は彼にも未知の世界だった。いったん対馬に渡って、そこの漁師小屋に宿泊し、いよいよ九州に向かった。

天が味方したのだろう。数日で万福は太宰府にたどりついた。百済や新羅の商人が大勢いたのにはびっくりした。彼らに倭国の役人にとりついでもらい、百済人のひとりを平城京までの道案内につけてもらうことになった。敏男も実は反乱軍の兵士であることをはじめて聞かされた。彼ももう半島には居場所がなく、帰りたくないというので、都まで同行することになった。

平城京はうわさに違わぬ立派な都だった。さっそく老師の知人だという僧侶道源を訪ねたら、大いに歓待され、寺に住まわせてもらうことになった。倭国についていろいろ知るにつれて、言葉以外は半島と似ているものが多いことに気がついた。道源師は「万福よ、お前も難民なら我らに協力してこの国の発展に力を尽くさねばならぬ。この国を、我々を追い出した半島の人間を見返してやるような、御仏に導かれた高い文化を持つ国に育てようではないか」と万福に言葉をかけてくれた。後になってわかったことだが、この国には難民やその2世・3世など、朝鮮半島にかかわりのある人々が驚くほど多かった。

道源は権力者の藤原不比等の娘である藤三娘という女性を万福に紹介した。師は敏男にも藤原家の警護員の仕事を紹介したようだった。藤三娘は熱心な仏教徒で、道源のために寺を建てたのも彼女だった。藤三娘は万福を屋敷に迎え入れ「そなたは有能な仏師と聞く。なら私の姿を描いてみよ」と上機嫌でモデルになった。そして万福の絵を大いに気に入って、褒美の反物まで与えてくれた。それから万福は藤三娘の屋敷に出入りするようになり、仏像や器のみならず、大工のまねごとのような仕事も与えられたが、持ち前の器用さでなんとかこなすことができた。そのうち姫(藤三娘)はよく万福に愚痴をこぼすようになった。「この国のやんごとなき男どもは皆陰謀や権力闘争に明け暮れ、国のまつりごとを真剣に考える余裕などないのだ。誠になさけないこと」などとよく嘆いていた。

それからまもなく、姫を不幸が襲った。母親が死去したのだ。姫はそれを悲み、供養のために興福寺にお堂を建てて、そこに仏像を安置しようと計画した。そしてその仏像制作責任者のひとりに万福を指名した。20才になったばかりの若い仏師にとっては大変な栄誉だった。指名された者はみんな張り切って制作に取りかかった。

しかし万福にはひとつ大きな問題があった。あの自宅放火と家族皆殺しの惨劇を経験して以来、納得のいく仏像を一体もつくることができないのだ。あれ以来、慈愛に満ちた仏の姿がまやかしのように感じられるようになってしまった。このことは誰にも打ち明けられなかった。しかし仏像の制作期限は一周忌までと定められている。このような重要な仕事をまやかしですませるわけにはいかない。悩みに悩んだ末、万福はひとつの決断をした。それは藤三娘をモデルとして像を制作するということだった。今の自分にはそれしかできない。それで叱責をうけることになっても仕方がないという結論にたどり着いたのだ。

決断した後は早かった。得意の乾漆の技術を用いて、悩み悲しみながらも強く手を合わせ仏の道を歩もうとする姫の阿修羅像を万感の思いを込めて制作した。完成した像を姫に披露するときは、どんな反応があるか心臓が止まりそうだった。しかし彼女のさばけた性格を知っていたので、密かに予想していた通り、姫は自らに生き写しの像を許してくれた。そればかりか、その前で万福と共に一晩祈りをささげた。夜が明けると落涙しながら万福を抱きしめ「これはわが姿形ばかりか、わが心根をそのまま表したものぞ」と礼を言った。共に仏像を制作していた仏師達も、あまりに当時の常識とは異なる破天荒な万福の作品に驚きながらも、その姿が依頼者とそっくりだったからばかりでなく、その像の放つ激しい精神の力に圧倒されて、口に出して万福を批判する者はいなかった。

最もその像に批判的だったのは万福自身だったかもしれない。万福はこの作品を狂おしいほど愛していた。しかしまたこの像には自分の人間世界や仏道に対する疑念が込められている・・・それもまた否定しがたい事実だった。万福は「今回は奇策によって破滅はまぬがれたが、もう仏師としての自分の人生は終わっている」と明確に認識した。これからどうやって生きていったらよいのか万福には全く見当もつかなかった。ともかくこのまま姫のお抱え仏師として生きていくことはできない。

万福は阿修羅像が安置された興福寺西金堂の完成と共に姫の元を去り、太宰府に行って故郷に帰るチャンスをうかがうことにした。風の便りによると、敏男は藤原家の命で長屋王の暗殺にかかわったそうだ。そして敏男も、指示した藤原四兄弟すべても、長屋王の呪いで疫病にかかって死んだという恐ろしい話も聞いた。姫の悲しみはいかばかりだっただろうか。万福はあの像が少しでも彼女の苦痛をやわらげることができたら・・・と祈ることしかできなかった。

あの苦い想い出の阿修羅像が、1000年以上も経過してから、ダヴィンチのモナ・リザに勝るとも劣らない人類史上最高レベルの傑作として多くの人々に愛でられようとは! 万福が生きていればどう思っただろうか。

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PS:興福寺の阿修羅像は来年春に上野の国立博物館にやってきます。

http://www.asahi.com/ashura/

この物語は私が阿修羅像を見て、心にわき上がったファンタジーです。もちろん全くのフィクションです。

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