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2008年4月28日 (月)

映画「スパイ・ゾルゲ」(2003年日本・ドイツ合作)

3回見た映画というのはそんなに多くない。せいぜい10本くらいでしょうか。一昨日WOWOWでやっていた「スパイ・ゾルゲ」をその3回目に見ました。いま池袋で一番にぎわっているサンシャインシティ。そこは昔刑務所で、太平洋戦争終了直前にリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実というスパイが処刑された場所でもあります。

ゾルゲ(イアン・グレン)と尾崎(本木雅弘)は共産主義者ということになっており、ふたりとも非常に優秀なロシアのスパイでした。ゾルゲはナチ党員となって東京のドイツ大使館に一部屋もらうくらいの地位を得、尾崎は近衛内閣のブレーンのひとりとして活動するまでの地位を得ていました。ゾルゲおよびそのグループはプハーリンのシンパで、プハーリンはスターリンに処刑されたので、実は彼も粛清されるか、利用されるか微妙な地位におかれていました。一方尾崎は上海でスメドレーの本に触れて、中国共産党の民族解放闘争に共感して、スメドレーに、信頼できる人間として紹介された謎の人物、ゾルゲの協力者になりました。

ひとつ間違うと日本を売ったスパイを礼賛しているとも受け取れる映画なので、ナショナリストには不快な映画であり、上映後激しい非難が集中したようです。しかし篠田監督の意図が共産主義の礼賛などであるはずはなく、私はこの映画はゾルゲや尾崎の目を借りて、太平洋戦争前夜の日本の歴史と当時の雰囲気を、私たち現代に生きるものに、最低限のものをピックアップして見せてくれたものと解釈します。聖徳太子より、織田信長より、明治維新より、もっと私たちが知っておくべきは、太平洋戦争の10年くらい前からの歴史だと私は思います。

この太平洋戦争前10年くらいの間の政治の失敗が、どのくらい多くの人々の生命や生活を失わせ、日本を地獄に陥れたかということは、苦い果実であってもよくかみしめなければなりません。日本人として、この映画に出てくるような史実を知っておくことは、最低限必要な知識でしょう。

この映画については、下記のような見方もあります(ASAHIネットの無記名の記事から引用)。

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「スパイゾルゲ」のテーマは、イデオロギーの世紀を生き抜いた人々によってしか、共感され受け止められることは不可能なのではないか。すくなくとも、同じ重みと感慨をもってこのテーマを受け止めることができるのは、かつて左翼運動に関わり、その中で精神的な高揚や自己の存在の充実を感じたり、同じ思想を共有していると信じられた友と深い共感を分かち合ったり、また、傷ついたり、挫折したり、敗北感を味わったりした人々でなのであろう。このような感情は、ゾルゲのような社会主義者に限らず、国家主義や天皇主義思想にのめり込んで、太平洋戦争を戦った若者たちにも共有されていたものかもしれない。
 後者が敗戦によって価値解体と思想的挫折を経験したのに対し、前者は冷戦崩壊によってそれを経験したのである。
 そして、そのいずれも経験したことのない今日の若い世代にとっては、その両方ともがオヤジたちのうざったい繰りごと、過去への未練、たんなる思想的アノミーとしか映らないのだろう。冷戦の崩壊後の今日、イデオロギーの幻想が広く人々の脳裏深く刻まれ、若い世代などは、そのような言説の存在したことすらすでに歴史的時代の出来事に属するものでしかないのだろう。そして、そのような文脈で「スパイゾルゲ」を彼らは面白くない映画として酷評するのである。

 吉祥寺で「スパイゾルゲ」を観た後、街に出ると、北朝鮮に拉致された人々の奪還を求める署名活動が行われていた。呼びかけをしたり、ビラを撒いたりしている人々をみると、大学生くらいだろうか、たくさんの若者の真剣な顔がそこにあった。これらの若者の顔をみるにつけ、ふたたび素朴で信じやすい心をナショナリズムがとらえようとしている今の時代を感じすにはおれない。
 このような若者たちの素朴なナショナリズムがどのような方向に向かうのか、私には、分からない。かつての若者たちが抱いていた理想の社会主義とは、あらゆる点で異なった醜悪で無惨な姿をさらす北朝鮮という社会主義国の圧倒的リアリティの前で、かつての幻想は木っ端微塵となったが、敗戦によっていったんは葬られたはずのナショナリズムは、さまざまな回路を経て、今日、再興を遂げようとしている。この新しいナショナリズムの先導者たちの筆頭を挙げれば、さしあたって小泉、安倍、福田などといった現政権の執行部の面々が浮かんでくるだろう。彼らに共通するのは、戦前の国家主義の流れをひく政治家の子弟として、親に反抗することもなくその地盤を受け継いできた従順な二世たちであるという点であり、さらに、敗戦による挫折を経験していない若い世代の政治家だということだろう。思想的挫折を知らない彼らが、善意と誠実をもって、素朴で心地よいナショナリズムのしらべをハーメルンの笛吹のように奏でながら若者たちを引き連れて、いったいどこへ誘っていくのだろう。

 スパイゾルゲを観て酷評する若い人々には、その蹉跌なき人生を心から賞賛したいと思う一方で、いつかこの映画を観て、同じ感慨にとらわれることもあるだろうとも思うのである。人生は決してそう賢明に生きられるもんじゃない。

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