メンデル
生物学を少しでもかじったことがある者なら、誰でもメンデルが現代生命科学の父であることを知っています。分子生物学の講義をするなら、たいていの講師はメンデルからはじめるか、ワトソン・クリックからはじめるかどちらかでしょう(写真の赤で囲ってあるのがメンデル)。
中沢信午氏の著書 「メンデル散策 遺伝子論の数奇な運命」 (新日本新書) は綿密な取材に基づいてメンデル (1822-1884) の実像を伝えてくれます。もともとメンデルは博覧強記というひとではなく、修道士になってまもなく教員資格試験に落ちて、失意のどん底にたたきおとされたこともあったそうです。しかし、それに同情した修道院長が、彼をウィーン大学に留学させたことがメンデルの才能を開花させました。
メンデルがいたブルノ修道院は14世紀のはじめに設立されましたが、19世紀には宗教だけでなく、文化や学術の中心でもありました。修道院長は農業の指導者でもあったわけです。当然生物学にも造詣は深く、研究のための農園などの設備も、構内にととのえていました。メンデルは決して不遇の研究者ではなく、優れた指導者と学問に関心が深い仲間の修道士、また良い研究環境・設備に恵まれていたのです。ただ彼の実家は裕福だったわけではなくて、学問を続けるために、妹がためていた結婚資金をとりくずして援助してもらったこともあったそうです。
彼の生物学の業績は生前あまり認められませんでしたが、むしろ気象学者としては多くの論文を書いていて、高名な学者としてすでに世に認められていたというのは、私は全く知らなくてびっくりしました。
メンデルの法則も、20世紀初頭の再発見まで、すっかり忘れられていたわけではなく、何名かの研究者はその重要性に気づいていたのだと上記の本は教えてくれます。再発見のどさくさの経緯も興味深く書かれています。
再発見は植物についてなされたもので(したがって追試に毛が生えたようなもの)、動物についてもメンデルの法則が成立することを証明したのは誰だったのか? それが外山亀太郎という日本人であることを知らなかったのは、とても恥ずかしいことで、私の不覚でした(発表は再発見に遅れること6年の1906年)。彼は牛込の自宅でカイコを使って研究していたのですが、カイコのエサである桑の葉がなくて、戸山まで盗みにでかけていたそうです。大変苦しい研究環境だったと察せられます。外山氏はメンデルの法則の再発見以前から研究をすすめていたので、もう少しよい研究設備があれば、コレンス達に先んずることができたのにと後にくやんでいたそうです。
メンデルは晩年に修道院長になりましたが、重い課税に激しく抵抗して、政府から精神病者と批判されるに至ったとは驚きでした。同情で胸が痛みます。いつの世も、研究者は金の問題で七転八倒することに変わりはないということでしょうか。
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